ひねもす俳句:冬のおわりに

練馬の畑
畑焼いて夕べの祈り捧げけり /勝美

産毛の新芽
木の芽晴こんがりとパン焼き上がり /勝美

春間近の公園
ベンチとは春愁の身の置き処 /勝美

遊歩道の梅
兜太ゐず青鮫もゐぬ梅である /勝美

2 thoughts on “ひねもす俳句:冬のおわりに

  1. >畑焼いて〜
    どうやら、たき火でこの日の作業は終わりのようです。
    ここを通ったときに、草を燃す匂いにすごく懐かしさを感じました。
    子供の頃、帰り道はずっとこんな匂いだったなと。
    >木の芽晴〜
    うまいパンを食べると、どことなくお日様のイメージがわいて来ます。
    小麦があびた陽の匂いかも知れませんね。
    >ベンチとは〜
    なるほど。確かに春になるとわけもなくちょっと鬱になったりすることもあります。
    そんな時に公園のベンチで陽をあびていると、だんだんそんな気持ちも溶けていきます。
    お日様はえらいです。
    >兜太ゐず〜
    最初なんのことだか解らなかったので、検索してみました。
    そこで「金子兜太全句集鑑賞」というページがヒット。
    http://aea.to/tota/TOTA.323.html
    誰も居なくても春は来る。
    詠まれなくても梅は咲く。
    それでいて、自分自身のために咲いた梅を見て、人がよろこぶのって両者ともに良い関係ですね。

  2. 「畑焼く」が春の季語。
    写真の畑は練馬区氷川台あたり。道路の反対側には古い大きな農家が。
    ここだけ昭和40年代の空気が流れているような気がしました。
    勝手ながら、なくなって欲しくない風景です。
    「木の芽」だけでも春の季語。木の芽晴ってどんな晴れなのよ?とも
    思う。きっと気象用語にはないんだろうな。
    でも木の芽晴れ。どこか出掛けたくなるような気分。
    パンもいい感じに焼けて、ウキウキ感がいいですね。
    今度はうって変わって春愁。
    春になると私はひたすら嬉しいので、春愁には無縁なのです。
    でも春愁なんていう言葉があるのは、深いですなぁ日本語は。
    春だから悲しい、というよりも、春なのに悲しい気持ちになるような
    出来事があった、としたら…。
    何もしないで、ベンチでぼ〜っとしていたくなるかも知れません。
    金子兜太(かねことうた)の
    「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」が元ネタですね。
    初めて知りました。知らなきゃ作れない句だけど、
    反対に、先人の句をいろいろ知ってることが邪魔になったり
    しないんだろうかと思ったり。
    「梅である」の突き放したような言い方が、きっぱりとしていて
    おもしろい。

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